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中国の友達は外来語に弱い。ルール(룰)だとかタイミング(타이밍)だとかそういう韓国語における外来語が分からないので、規則だとか時間が合うとかそういう風に言い換える。俺も彼らと話すときは意識的に固有語や外来語を避けて漢字語で話すように心がけている。一方で、よく指摘されるように日本語は外来語過多である。一度はリスクという言葉を使ってみたが通じないので言い換えなければならなかった。しかしなかなか適当な言葉が思いつかない。しかたなく英韓辞典を引いてみると「危険(위험)」と出ていた。なんてことはない。「~するリスクがある」は日本語においても「~する危険がある」で十分代用可能である。こういうのは韓国語力以前に日本語力の問題である。
ところで、日本語においては外来語が何故か忌み嫌われる傾向があるように思える。もちろん、意味の推測が難しい英語起源の外来語を多用するとコミュニケーションの効率が下がるから、推測が易しい漢字語に置き換えようというのは賛同できる。だがそれ以上に、「日本語を使わずに外国語を使うとは何事か」という日本語原理主義的な嗜好にはちょっとついていけない。この手の意見の論理的な破綻は、漢字語にしてもそもそもは外国語起源の外来語である、という点である。もちろん、漢字語の歴史は古く、日本は漢字語の単なる需要者ではなく供給者でもある。現代中国諸語における近代的な言葉の殆どは日本製であるというのは有名な話であるし、言語学的にはそれまで孤立語だった中国語に膠着語的な接頭辞や接尾辞の概念を導入してより造語力を高めたのも、中国語とは類型論的に異なる日本語の影響であるという論文を読んだこともある。 何がいいたいかというと、言語政策(国家やマスメディアによる標準語のコントロール)を考えるという視点からではなく、言語の使用者の立場から考える際には、固有語/漢字語/外来語の割合などに関して文句をつけても仕方がない、ということである。日本語と韓国語と中国語で比べると、日本語は外来語過多であり、韓国語は漢字語過多であり(韓国語では日本語なら固有語でいうようなことも漢字語で言う傾向がある。「きめる」を「決定する」、「うらむ」を「怨望する」など)、中国語は固有語=漢字語なのも手伝ってほとんど漢字語オンリーである。中国人や韓国人が「日本人は漢字語を使いすぎ、もっと自国の言葉を大事にするべき」とかいうのは、どう聞いても日本語の外来語を覚えられない不満からの言葉にしか聞こえない。同時に、日本人も韓国語を覚える際には日本では外来語ですませている概念を漢字語で表わすという風習に根気よく付き合うのが真面目に言語を学ぶ人間の態度であると思う。
by guixiang
| 2005-06-19 12:15
| その他の言語
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Comments(4)
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えりんぎ
at 2005-06-19 21:05
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なるほどねー。
個人的には外来語というかあやしい日本語英語が 既存の言葉と並存するならひとつの現象をあらわす言葉が増えて 効率的なのではないかと思うんだけど・・・ 逆に既存の言葉が劣勢になって外来語に取って代わられると 既存の言葉が第2義、第3義で持っていた意味を表す言葉が 手薄になって一般の使用者による表現が粗くなるんではないかと いう危惧が若干あるんだけども。 まあこの『粗い』『精巧』とかいう基準も今ベースにしてるわけだからすごくあいまいな概念なんだけど。 自分は今使ってる言語を愛しているわけなんですね。今がイイと思うからこそ変えたくないわけで。もし外来語ばっかりの日本語になった時代に生まれたとしてもそれ以上日本語を変えたくないとか思うかも。 論点がずれてきた。 ボロボロなのでこのへんで。
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guixiang at 2005-06-20 00:31
>外来語というかあやしい日本語英語が既存の言葉と並存するならひとつの現象をあらわす言葉が増えて効率的なのではないか
ひとつの現象(または概念)をあらわす言葉が増えるのは効率的かな? たとえば「創造的」に対して「クリエイティブ」という外来語が登場したとして、それがどういう意味をもつか考えるとき、微妙な概念の差を表すことができるという点に意味があるのでは? と、この点にかんしてはえりんぎと全く逆に考える。
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guixiang at 2005-06-20 00:32
>既存の言葉が劣勢になって外来語に取って代わられると既存の言葉が第2義、第3義で持っていた意味を表す言葉が手薄になって一般の使用者による表現が粗くなるんではないか
外来語の氾濫が若者の言語能力を低下させているという主張はよく耳にするけど、あまり相関性はみられないと思う。単語や言い回しという広義での語彙力は、「言語」そのものがもっている語彙の範囲と直接関係ないんじゃないかな? つまり、日本語というのは日本語母語話者の最大公約数みたいなものだから、日本語母語話者といえでも「日本語」の(基準はともかくとして感覚的に)60%とか70%しか知らないことになる。だから、もし仮に日本語が「貧しく」なったとしても、言語能力そのものは「日本語」知識のパーセンテージを高めることでカバーできるのでは?
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guixiang at 2005-06-20 00:32
>外来語ばっかりの日本語になった時代に生まれたとしてもそれ以上日本語を変えたくないとか思うかも
上の話のつづきになるけど、自分の「今使ってる言語」は大きな枠での「日本語」の一部に過ぎないわけで、その枠内でなら自分の言語を変化させるのはある程度自由度がある。たとえば、誰かさんが一人称を「わし」といっても、ちょっと変わった人と思われるだけで、日本語を喋ってないとは思われない。でも一人称が「うぉ」だとか「じゅ」とかになると、日本語を話しているとは思われない。そういった大きな枠を変化させるには大変な時間と労力がかかる。そういう変化と(その大きな枠内での)個人的な言語使用の変化は区別して考える必要があると思う。
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